2016年1月9日土曜日

アミリ・バラカ (1934-2014): 革命的政治、ブラックカルチャーを形作った詩人-劇作家-活動家

ことばを銃弾にと説いた詩人アミリ・バラカの追悼番組(democracynow.org)の翻訳です。動画にはバラカのパワフルなパフォーマンスも登場します。(大竹秀子)
2014年1月10日にオンエアされたDemocracy! Nowの追悼番組


19日はアミリ・バラカの命日です。アミリ・バラカ(1934107日‐201419日)。ニューヨーク・タイムズ紙の死亡記事は、こんな風な文章で始まっています。「アミリ・バラカ。憤怒の詩人・劇作家。長年にわたり、アメリカでの黒人体験をまざまざと表現し、白熱の輝きを賞賛されるとともに、一部では扇動者とのそしりを得た」。1960年代と70年代には、バラカはブラックパワー運動を芸術の領域で体現した「ブラック・アーツ」運動の先鋒に立ちました。代表作といわれる『ブルースピープル』(1963)(リロイ・ジョーンズ名で執筆)はジャズの登場からビバップの誕生までの流れをアメリカの黒人史とのつむぎあいの視点でとらえた評論です。また戯曲『ダッチマン』(1964)は、レイシズムの恐怖を生々しく感じさせ、高い評価を得ました。

60年を超える政治的・社会的・芸術的な領域での活躍の中で、バラカの立ち居地は次々に変わります。「バラカ氏は初期のキャリアをビートニクとして、中期にはブラック・ナショナリストとして、晩年はマルキストとして過ごした。その立ち居地の転換は、時代の変化を映す鏡であるとも、本人の持ち前の移り気な気性を正確に表すバロメーターであるともみられた」と、ニューヨーク・タイムズ紙は、とげを感じさせる書き方をしています。「60年間にわたるバラカ氏の著作は、反ユダヤ、女嫌い、同性愛嫌悪、レイシスト、孤立主義、危険な過激派だとして、繰り返し糾弾された」のです。

「しかし」とタイムズ紙は追悼記事は続きます。「彼をチャンピオンと見る人も中傷する人も、彼がその最高の著作においてパワフルな発言者であり、魅惑的な演説者であり、国際的な文学シーンで、彼を愛そうが憎もうが、無視することはまず不可能な不朽の存在だと認めている」。


以下、「デモクラシー・ナウ!」が2014110日にオンエアした追悼番組(英語原文のトランスクリプトはここ)を日本語に訳してみました。バラカの詩は、英語のまま遺してあります(詩の訳は難しすぎる!)。ただ、弁解でなくいえることは、バラカの詩は、目で見て耳で聴いてこそ、真価が輝きます。番組に織り込まれた迫力満点の朗読パフォーマンスをリンクした映像で満喫してください。



エイミー・グッドマンとフアン・ゴンザレス


フアン・ゴンザレス:詩人、劇作家、政治オーガナイザーのアミリ・バラカの生涯と功績を追悼する特別番組をお送りします。バラカは[2014年]19日、ニュージャージー州ニューアーク市で逝去しました。79歳でした。バラカは、1960年代と1970年代に「ブラック・アーツ運動」の中心人物になりましたが、最初に名を馳せたのは、ビート世代の詩人としてです。雑誌「Yugen(ユーゲン)」の発行者の一人となり、アレン・ギンズバーグやジャック・ケルアック、グレゴリー・コーソなどの作品を出版しました。

当時の彼は、リロイ・ジョーンズという名で活躍し、著作『ブルースピープル』を世に出しました。同書は、アフリカ系アメリカ人が書いたブラックミュージックの初の主要な歴史書と評されています。1年後には、詩集. The Dead Lecturer を出版し、戯曲『ダッチマン』でオビー賞を受賞しました。

エイミー・グッドマン: 『ダッチマン』 は、出生時のリロイ・ジョーンズという名で発表した最後の戯曲になりました。1965年にマルコムXが暗殺されるとハーレムに移り、「ブラック・アーツ・レパートリー・シアター」を創設。まもなくして「ブラック・アーツ運動」のリーダーになりました。2007年にデモクラシー・ナウ!に登場した時、名前を変えたことについてこんな話をしてくれました。

アミリ・バラカ: 最初の名はエベレット・リロイ・ジョーンズ。祖父の名がエベレットで、警察官だった。1920年代にニューアークにやって来たんだ。うちの一族は、それ以来、長い間そこにいる。父の名はリロイ、ちょっとフランス的なんだ。ファースト・ネームがコベットだからね。家族でサウスカロライナから移ってきたんです。私が自分の名前を変えたのは、アフリカ革命について知り、我々のアフリカのルーツを認識した時だ。命名してくれたのは、マルコムXを埋葬したヘシャム・ジャバルという人物でね。先週、亡くなりましたが。Amir Barakat という名をつけてくれたんです。だが、これではアラビア語の名だ。 だからスワヒリランド、タンザニア風にしてアクセントをつけて、AmirAmiri に、Barakat Baraka にした。その方が面白い。Amir Barakat という名だったら、たぶん、今頃は、飛行機への搭乗が難しくなっていただろう。

ゴンザレス: 1960年代後半に、アミリ・バラカはホームタウンのニューアークに戻り、政治的な組織化活動に集中し始めました。1967年、ニューアークでの都市暴動の渦中には、警官に撲殺されかけました。 FBIはバラカを「米国内で、汎アフリカ運動のリーダーとして今後、頭角を現すであろう人物」としてマークしていました。3年後の1970年には、 「アフリカ人会議(the Congress of African People)」 を結成し、2年後には、インディアナ州ゲーリーで開催された「ブラック政治会議(the Black Political Convention )で演説しました。

アミリ・バラカは昨年末、入院するまで著作と詩のパフォーマンス活動を続けました。2002年には、ニュージャージー州の「桂冠詩人」に任命されましたが、9.11襲撃事件をテーマにした詩を書いた後、州は「桂冠詩人」の制度ごと廃止し、同州のみならず全米で大騒動になりました。

ヒップホップ・アーティストやスラムの詩人に大きな影響


グッドマン: アミリ・バラカの仕事は、若い世代のヒップホップ・アーティストやスラムの詩人たちに大きな影響を与えました。アミリの生涯と功績についてゲストの皆さんに話を聞きます。が、まず最初にHBOの番組 Def Poetry Jam on (『デフ・ポエトリー・ジャム』でのパフォーマンスをご覧ください。
動画の3分22秒あたりから


 バラカ:  "Why is We Americans?" という詩の一部で、テレビからのクリップです。
Why is we Americans?
Why is we Americans?
what i want is me. for real. i want me and my self. and what that is is what i be and what i see and feel and who is me in the . what it is, is who it is, and when it me its what is be....i’m gone be here, if i want, like i said, self determination, but i aint come from a foolish tribe, we wants the mule the land, you can make it three hundred years of blue chip stock in the entire operation. We want to be paid, in a central bank the average worker farmer wage for all those years we gave it free. Plus we want damages, for all the killings and the fraud, the lynchings, the missing justice, the lies and frame-ups, the unwarranted jailings, the tar and featherings, the character and race assassinations. historical slander, ugly caricatures, for every sambo, step and fechit flick, we want to be paid, for every hurtful thing you did or said. for all the land you took, for all the rapes, all the rosewoods and black wall streets you destroyed. all the mis-education, jobs loss, segregated shacks we lived in, the disease that ate and killed us, for all the mad police that drilled us. For all the music and dances you stole. The styles. the language. the hip clothes you copped. the careers you stopped. All these are suits, specific litigation, as represent we be like we, for reparations for damages paid to the Afro-American nation.

we want education for all of us and anyone else in the black belt hurt by slavery. for all the native peoples even them poor white people you show all the time as funny, all them abners and daisy maes, them beverly hill billies who never got to no beverly hills. who never got to harvard on they grandfathers wills. we want reparations for them, right on, for the Mexicans whose land you stole. for all of north Mexico you call Texas, Arizona, California, New Mexico, Colorado, all that, all that, all that, all that, all that you gotta give up, autonomy and reparations. to the Chicanos, and the Native Americans, who souls you ripped out with their land, give Self-Determination, Regional autonomy, that’s what my we is askin, and they gon do the same. when they demand it, like us again, in they own exploited name.

Yeh the education that’s right two hundred...years. We want a central stash, a central bank, with democratically elected trustees, and a board elected by us all, to map out, from the referendum we set up, what we want to spend it on. To build that Malcolm sense Self-Determination as Self-Reliance and Self Respect and Self Defense, the will of what the good Dr. Du Bois beat on — true self consciousness. Simply the psychology of Freedom.

Then we can talk about bein american. then we can listen without the undercurrent of desire to first set your [bleep] on fire. We will only talk of voluntary unity, of autonomy, as vective arms of self-determination. If there is democracy in you that is where it will be shown. this is the only way we is americans. this is the only truth that can be told. otherwise there is no future between us but war. and we is rather lovers and singers and dancers and poets and drummers and actors and runners and elegant heartbeats of the suns flame....but we is also to the end of our silence and sitdown. we is at the end of being under your ignorant smell your intentional hell. either give us our lives or plan to forfeit your own.

グッドマン:  Def Poetry Jam シリーズで自作の詩"Why is We Americans?" を朗読するアミリ・バラカのパフォーマンスでした。アミリ・バラカは19日に79歳で亡くなりました。本日は、4人のゲストをお迎えしています。詩人仲間のソニア・サンチェス、元「ヤングローズ(Young Lords)」議長のフェリペ・ルシアーノ、ニューアークのコミュニティ・オーガナイザーのラリー・ハム、歴史家でA Nation Within a Nation: Amiri Baraka and Black Power Politics(『国の中の国:アミリ・バラカとブラックパワーの政治学』の著者コモジ・ウッダードの各氏です。

動画の8分7秒あたりから

バラカ: Wailers are we
We are Wailers. Don’t get scared.
Nothing happening but out and way out.
Nothing happening but the positive.

(Unless you the negative.)

Wailers. We wailers. Yeh, Wailers.
We wail, we wail.
We could dig Melville on his ship
confronting the huge white mad beast
speeding death cross the sea to we.
But we whalers. We can kill whales.
We could get on top of a whale
and wail. Wailers. Undersea defense hot folk
Blues babies humming when we arrive.

Boogie ladies strumming our black violet souls.

Rag daddies come from the land of never say die.
Reggae workers bringing the funk to the people of I. We wailers all right.

Hail to you Bob, man! We will ask your question all our lives.

Could You Be Loved? I and I understand.

We see the world. Eyes and eyes say Yes to transformation. Wailers. Aye, Wailers.

Subterranean night color Magis, working inside the soul of the world Wailers.

 グッドマン: 自作の詩 "Wailers" を朗読するアミリ・バラカでした。サキソフォン奏者は、デイビッド・マレイ。ボブ・マーリーとラリー・ニールにささげた詩です。


ビート詩人としてスタート



ゴンザレス: アミリ・バラカの功績をさらに見ていくために、4人のゲストをお迎えしています。フィラデルフィアから参加するソニア・サンチェスさんは、高名な文筆家、詩人、劇作家、活動家で、ブラック・スタディーズ運動の最大の指導者のひとりです。Morning Haiku(『朝の俳句』)、 Shake Loose My Skin  Homegirls and Handgrenades. (『ホームガールと手榴弾』)はじめ、著作は十数冊に及びます。フィラデルフィアの桂冠詩人で長年にわたりアミリ・バラカの友人で仕事仲間でした。

ここ、ニューヨークのスタジオには、3人のゲストが来てくださいました。 私の長年の胞輩でもあるフェリペ・ルシアーノさんは、詩人、活動家、ジャーナリスト、文筆家です。元「ヤングローズ」議長でアミリ・バラカとは43年間の知り合いで、詩と音楽のグループ「最後の詩人たち(The Last Poets)のオリジナル・メンバーでした。

コモジ・ウッダードさんはサラローレンス大学の歴史学教授で、A Nation Within a Nation: Amiri Baraka and Black Power Politics(『国の中の国:アミリ・バラカとブラックパワーの政治学』の著者です。

ラリー・ハムさんは、People’s Organization for Progress(進歩のための民衆の組織)の議長です。アミリ・バラカからAdhimu という名を付けてもらいました。

ソニア・サンチェスさんからはじめましょう。アミリ・バラカ氏の訃報を聞いたとき、どう感じましたか?


ソニア・サンチェス

ソニア・サンチェス: ブラザー・フアン、そしてほかのブラザーたち、シスター・エイミー、おはようございます。

コジモ・ウッダード: おはようございます、ソニア。

サンチェス: 皆さんの声を聴けて、喜んでいます。ブラザー・フアン、そしてほかの皆さんと同じように、ショックということばではかたりつくせない思いです。ブラザー・アミリとその家族がいない世界なんて、想像すらできません。1日の中で何かを始めようとするときには、いつでも彼やニュージャージにいる彼の家族に「ハロー」と挨拶している気がします。私が「輝ける60年代」と呼ぶ時代のブラザーやシスター全員に向かって「ハロー」というのです。世界を変える先駆けをした人たちです。立ち上がり、世界を大きく変えようと決意したのです。


 ですから、ニューアークのシスター・アミナから電話で逝去の知らせを聞いたとき、私の最初の反応は、「もう会えないなんて verte y no verte)」でした。 でもその後、外に出て、12ブロックほど歩いて戻ってきたときに、気がつきました。彼は生きている。いまも生きているし、これからもずっと私たち皆の心の中で、若者や若い詩人たち、地に着いたモラルを備えた人々の心の中で生き続けるのだと。 なぜなら、アメリカと呼ばれるこの土地や世界に変化をもたらす大きな一歩を踏み出したのは、この人だからです。


グッドマン: アミリ・バラカの伝記の著者コモジ・ウッダードさんは、サラローレンス大学の歴史学教授です。 伝記のタイトルは、A Nation Within a Nation: Amiri Baraka and Black Power Politics(『国の中の国:アミリ・バラカとブラックパワーの政治学』)です。アミリの生涯を、かいつまんで聞かせてください。
コモジ・ウッダード

ウッダード: 大恐慌のさなかの1934年にニューアークで生まれ、父親の名前を継いでリロイと名づけられました。ハワード大学に進学して、そこで同世代のトニ・モリソンやアンディ・ヤングと出会いました。ハワード大学卒だと思っている人が大勢いますが、最終学年の最後の学期にドロップアウトして、空軍に入隊しました。が、空軍から追い出された。不名誉除隊です。

それから、グリニッチビレッジの「ビート詩人たち」に加わり、驚異的な活躍をします。ビート詩誌の編集者になり、その任を引き受けて―あらゆる偉大な詩人のエージェンシー役を果たし、新しいアメリカの詩を集めたのです。


マルコムXとの親交とその死の衝撃


1960年には、フィデル・カストロに招かれ、黒人作家の代表団と共にキューバに赴き、同地でロバート・ウィリアムズに出遭いました。「自己防衛」で知られる黒人地位向上協会( NAACP )の活動家です。帰国後は、マルコムXと親交を深めました。19651月には、マルコムXとアブドゥルラーマン・バブとアミリ・バラカとの夜を徹しての有名な会合がもたれ、黒人解放に向けた国際的な戦略が討議されました。マルコムXが殺される、ほんの数週間前でした。

マルコムの死後、バラカはグリニッチビレッジを去ってハーレムに移り住み、1965年にブラック・アーツ・レパートリー・シアタ/スクールを創設します。学校とシアターの資金集めのため、ジャズ・ミュージシャンたちがコンサートを開きました。バラカはすでに『ブルースピープル』を出版していました。彼にとって重要な作品でした。ブルースを研究することで自分の詩をかなでる声をみつけたからです。その後の活躍は、ご存知の通りです。ブラック・パワーの組織をたくさん、作りました。

数年前、ソニアさんと共に75歳の誕生日を祝ったときには、アーティストとアクターがおそらく1000人近く、集まりました。祝賀のさなかに、この人たちの多くが彼の元生徒だと気づき、こう思ったものです。彼のメンターだったスターリング・ブラウンは、「あなたの一番大きな仕事は?」と聞かれた時「私の生徒たちです」と答えましたが、 バラカの答えもきっと同じだろうな、と。


ブラック・アーツ運動の旗手―ことばを銃弾に


ゴンザレス: フェリペさん、あなたはそんな生徒のひとりでしたね。彼との出会いは、ブラック・アーツ運動の時期でした。あなた自身は、「最後の詩人たち」のメンバーでした。アミリとの出会いとあなたの生涯に彼が及ぼした影響について、聞かせてください。


フェリペ・ルシアーノ

 フェリペ・リシアーノ: 1967年に我々は「最後の詩人たち」というグループを始めました。ジラン・ケイン、アビオダン・オエウォール、デイビッド・ネルソンが仲間でした。ブラックとプエルトリコ系との初の集団でした。前代未聞だったんですよ。震えおののきながら、彼に会いました。ウッダード教授がおっしゃったように、彼はブラック・アーツ運動の創始者でしたからね。我々がその後長い間、伝統をたどった運動です。彼はすぐに私を受け入れてくれました。


アミリは私が出会った中で、知性と好戦性をひとつにすることができる唯一の黒人知識人でした。好戦性、攻撃的な行動と学識がひとつになるのです。信じられないほど博学で、テニソンやイエーツ、ワーズワース、ウォルト・ホイットマンを引用することができました。アレン・ギンズバーグとは知己の間柄で、私をアレン・ギンズバーグに紹介してくれました。私にとっては畏敬の念を抱く存在でした。

読んで書く、書いて読むことが大事だといつも言っていました。そして「何の役にたつんだ?」とも言いました。私に向かって最初に言ったことは、こうでした。「俗塵を離れ、現実逃避のロマンティストになって、何の役に立つ?言葉をつかんで銃弾にするんだ。ことばをつかんで、ことをおこすんだ」。まさにそれが、彼の詩であり、彼のモチベーションでした。この教えが私を「最後の詩人たち」から「ヤングローズ」へと導きました。

グッドマン: 詩の話しが出たので、アドヒムさんに話をうかがう前に、というのも、時間軸を追って話を進めていますから。―皆さん全員がバラカの知り合いで、ほとんどの人は40年来の知り合いですが、アドヒムさんという名は、アミリの命名ですよね。でも、まずはコモジ・ウッダードさんに次の詩の紹介のお膳立てをお願いします。アミリ・バラカによる詩 "It’s Nation Time"の朗読です。1970年の朗読で、アドヒムさん、あなたが「アフリカ人会議」の創設会議で彼に会う直前です。 はじめにお断りしておきますが、この朗読には、 N-word が繰り返し出てきます。作品の背景を聞かせてください。

ウッダード: 1970年に我々はニューアークで初の黒人市長を選出させようとして政治キャンペーンを行っていました。骨の折れる仕事でした。夜遅く、誰かが「いま何時だい?」と聞きました。そろそろ家に帰って煩雑な仕事から解放されたいなという感じの聞き方でした。するとババ・マウリという名の老人がこういったんです。"It’s nation time." と(訳注:Black Nationのときがきた)。この話を聞いたバラかは、ほかの多くの詩でもやったように、このエピソードを壮大な詩にしたのです。

グッドマン: "It’s Nation Time"、アミリ・バラカです。



動画の18分56秒あたりから
バラカ: come out niggers niggers niggers niggers come out
help us stop the devil
help us build a new world
niggers come out, brothers are we
with you and your sons your daughters are ours
and we are the same, all the blackness from one black allah
when the world is clear you’ll be with us
come out niggers come out
come out niggers come out

It’s nation time eye ime
It’s nation ti eye ime
It’s nation ti eye ime
It’s nation ti eye ime
chant with bells and drum
it’s nation time

It’s nation time, get up santa claus
get up roy wilkins, get up diana ross, get up jimmy brown
it’s nation time, build it
get up muffet dragger
get up rastus for real to be rasta farari
ras jua
get up nigger get up nigger
come over here nigger
take a bow nigger

It’s Nation Time!

グッドマン: 1970年にアトランタで自作"It’s Nation Time" を朗読するアミリ・バラカでした。ラリー・ハムさん、あなたはその年にアミリ・バラカと初めて会いましたね。場所は、どこでしたか?
ラリー・ハム(アドヒム・チュンガ)

 ラリー・ハム: はい、1970年にアミリ・バラカが私の学校、アーツ・ハイスクールに来て講演したんです。


グッドマン: 場所はどこですか?

ハム: ニュージャージー州のニューアークです。その時、初めて会いました。でも私たちがほんとに初めて会って話したのは、19718月です。私は17歳でニューアーク教育委員会に任命されていました。

グッドマン: 史上、最年少でしたね。

ハム: 全米の教育委員会の中で最年少でした。まだ選挙権もなかったんです。でもギブソン市長が私を任命しました。ニューアーク市初の黒人市長で、当選にはアミリ・バラカが貢献していました。ですから、私たちが始めて会って話したのは、19718月だったんです。

先ほど、アドヒム・チュンガ( Adhimu Chunga)という私の名前の話が出ましたが、彼が名付け親です。19723月にインディアナ州ゲーリーでの全米黒人政治会議National Black Political Convention)に派遣された後に、アフリカの名前がほしいと頼んだのです。私はリッジウッド・アベニューのはずれの12丁目のゲットーの出身でしたが、ゲーリーの全米黒人政治会議に行き、目からうろこが落ちた気がしました。私を革命的に変えたのです。ですから、ゲーリーから戻った後、バラカにアフリカの名を付けてほしいとお願いしました。19723月にアドヒム・チュンガという名をもらいました。

私にとってアミリ・バラカは、偉大なアメリカの革命家です。私の中にある革命的な社会変化を求める願いは、すべて彼につながっています。

ニューアーク暴動のとき 警察の手で半殺しの目に

―ギンズバーグとサルトルが救援


ゴンザレス: ニューアークの話が出たところで、ニューアークについて語るアミリ・バラカのクリップをご覧ください。2007年、ニューアーク暴動40周年に「デモクラシー・ナウ!」にゲスト出演したときの録画です。蜂起がなぜ起きたのかという、私の質問に答えています。

バラカ: 奴隷からみていくべきです。なぜなら、虐待が根絶したわけではありませんから。ひとはスラムに住みたくて住んでいるわけではありません。子供たちが刑務所にいるのは、親がそう望んだからでもない。こうしたことは、虐げられ、全国的に抑圧されてきた人たちの結末です。ニューアークはアメリカで3番目に古い都市ですが、こうした虐待がひとつになり、その上にレイシズムが合わさって理不尽の一例をあげると劇の演出をしていると、その古いロフトに警察がなだれこんで、警官が私の手から脚本をとりあげました。まるでそれが危険な武器だとでもいうかのように。

それはともあれ、その日、我々はピケを張っていました。ジョン・スミスという名の黒人のタクシー運転手が警官にひどく殴られたからです。人々が警察署の前に集まり、その夜は爆発寸前でした。前夜にあたる11日のことです。で、翌日、我々は、警察署の前でピケを張っていました。暴行事件が起きたのは、そこだったからです。その日、日没が始まる前に、火がつきました。

ゴンザレス: さきほどアドニシオ市長のクリップをみましたが、当時の政治的雰囲気について、そして市政について聞かせてください。当時は、アンソニー・インペリアルがのしていた時代ですよね。当時の雰囲気はどうでしたか、ニューアークの多数派の市民、黒人コミュニティは、どんな風に感じていましたか?

バラカ: まず、アドニシオですが、市の予算の1パーセントをマフィアに貢いでいた。

グッドマン: 当時の市長ですね。

バラカ: 市長です。「猪首のアドニシオ」と呼ばれてました。警察のトップはスピナでした。警官が私を殴打したときのことですが、警官は私を留置所に連行せずにスピナのオフィスに連れていき、床にたたきつけました。まるで映画のワンシーンででもあるかのようにスピナはいいました「堪忍しろ」。で、私は「だが、死んじゃいないよ」。

ッドマン: 警察のトップが?

バラカ: 警察署長でした。

ゴンザレス: 警官があなたを彼のオフィスに連れていった。

バラカ: 留置場ではなく、彼のオフィスに。でも、私が警察に告げた身元は生まれたときの名前、エベレット・L・ジョーンズ、労働者だったので、私の妻がアレン・ギンズバーグに連絡するまで、警察はシラを切ることができました。

グッドマン: 詩人のギンズバーグですね

バラカ: —ギンズバーグがジャン=ポール・サルトルに連絡し、サルトルが警察署に電話した。

グッドマン: フランスから?

バラカ: ええ、警察に電話してくれたんです。サルトルとギンズバーグ、そういった連中が、電話戦法を始めてくれた。私の命が助かったのはひとえに、警官が私を殴っていた建物の背後のアパートに住む人たちが、窓から警官たちに向かっていろいろなものを投げつけてくれたおかげです。でなければ、一巻の終わりだったでしょう。レイシズムがはびこっていましたからね。

ゴンザレス: その頃には、あなたはもう著書も出版された作家で高名な詩人でしたね。

バラカ: ええ、ニューアークで奴らをうるさく攻撃してました。そんなことをするには、町が小さすぎたんですよ。警官たちは、詩の朗読会まで中止させましたから。そこまで、荒れていたんです。通りを車で流し、私の妻やその界隈のほかのレディたちに罵倒を浴びせていた。ありとあらゆるひどい呼び方でしたんです。そんな言い合いが日夜続いていて、ついに爆発した。

我々は活動してました我々の市長をもとうとか、我々の議会をつくろうとか。ストークリー(・カーマイケル)が「ブラックパワー」と言い出した頃だったんで、我々は市のこれはという建物すべてにスプレーで「ブラックパワー」ということばをペイントしようとしていた。警察には誰の仕業かわかってました。

私を逮捕すると、連中は私の家にとんでいってチラシやなんかをすべて破壊しようとしました。でも妻がぬけめなくそういったものを運びだし、近所の家に移してありました。それでも謄写版だとかは壊されました。車まで壊したんですよ。捜索破壊が目的です。誰を相手にしてるか、連中にはわかってました。些細な例ですが、そんな具合だったんです。

市全体についていえば、ハーバーズ誌が書いたように、ニューアークは全米で最悪の都市でした。人口密度は1平方マイルに18000人。プロジェクト(貧困層向け公営住宅)はそんな状態で、いつも爆発寸前でした。

ブラックとラティーノが手を組む


ゴンザレス: アミリ・バラカさんの2007年のインタビューでした。フェリペさん、当時ですら、ニューアークにはかなりの数のプエルトリコ人がいて、ラティーノ・コミュニティがあり、ブラックコミュニティーとの間で仲間としての連帯や協力がありました。ふたつのコミュニティの関係、そして当時、ブラックナショナリストだったアミリの立ち居地、差別と抑圧に苦しむ民衆のより広い前線をつくろうとしていた姿勢について聞かせてください。

ルシアーノ: 彼の展開は、驚きです。ビート詩人から文化的ナショナリズム、革命的ナショナリズム、社会主義、そして共産主義です。ある日、彼から声がかかりました。「来ては、どうだい」。それまでに彼とは「ニューアーク連合委員会 the Committee for Unified NewArk)で共に働き、ケン・ギブソンを当選させようと奔走していました。

グッドマン: ニューアーク市長ですね。

ルシアーノ: 初の黒人ニューアーク市長です。私は彼と一緒にこつこつと働きました。プエルトリコ・コミュニティの中で、そしてブラックコミュニティの中で我々は彼と共にこつこつと働いたんです。我々がヤングローズを始めたときに、彼から声がかかりましたある晩、私たちは話をしました。「相互防衛協定を始めてはどうだろう?」「アミリ、本気ですか?」と私は聞きました。「もちろんさ」と彼は言った。「ニューアークの黒人たちとやっていくのだけでも難しいのに」と、私。だって、我々はニューアークを南部の北端と呼んでいましたから。ボルチモアみたいでした。「一緒にブラックとプエルトリコ人の協定をまとめてみようよ」と彼は言いました。なんとこれが、アフリカ系アメリカ人とプエルトリコ人との初の相互防衛協定になりました。彼の進化、先見の明には、舌を巻きます。

彼はラティーノ文化が大好きでした。彼とアミーナが踊るマンボには、ほれぼれしましたよ。彼はペドロ・ピエトリを迎え入れたし、ミゲル・ペニェーロやビクトル・ヘルナンデス・クルーズも、そして我々全員を、ニュヨリカン(Nuyorican)つまり、ニューヨークのプエルトリコ系の詩人として迎え入れました都市の新たなネグりチュード運動の創始者は、実はアミリ・バラカと1964年のブラック・アーツ運動なんです。

ハム: もうひとつ重要なのは

グッドマン: ラリー・ハムさん、どうぞ

ハム: —付け加えておきたいのは、ギブソン市長は、アミリ・バラカがいたから当選できたということです。

ウッダード: その通り。

ハム: ニューアーク連合委員会は、ブラックとプエルトリコ系会議を組織しました。会場は、現在のユニバーシティ・ハイスクール、当時はクリントン・プレース・ジュニアハイスクールと呼ばれていました。この提携がなければニューアークでギブソンは黒人票だけでは当選できなかったでしょう。

ルシアーノ: その通り。プエルトリコ人の浮動票がなければ。

ハム: 連合の力です

ルシアーノ: ラモン・リベラが彼を助けた。

ハム: そう、アフリカ系アメリカ人とプエルトリコ系との提携です。この連携が続きました。いま名前のあがったラモン・リベラは当時一貫してニューアークの活動家で、アミリととても近い間柄でした。
マヤ・アンジェロウと踊るバラカ

 ルシアーノ: そうそう。


グッドマン: ウッダードさん、マヤ・アンジェロウはアミリ・バラカのことを「存命している中で最大の詩人」と称しました。そのことについて、アミリとアンジェロウ、そしてトニ・モリソンとの関係について聞かせてください。

ゴッダード: バラカは詩人でした。マヤ・アンジェロウとアビー・リンカーンがルムンバの死に抗議して国連でデモを呼びかけた時、バラカはほかの大勢の人たちと一緒に逮捕されました。警察は人々を殴打し、彼を逮捕しました。留置所の中で彼は、アスキア・ムハンマド・トゥレはじめ、一緒にデモをしていたのが詩人たちだったことに気づきました。彼にとって政治と詩は同じひとつの流れでした。詩を使って実験をしたのです。『ブルースピープル』で彼は自分の詩の声をみつけました。『ブルースピープル』の前と後の詩を読むと、後者にはブルースのエトスとジャズの美学が聴き取れます。彼はその多くをラングストン・ヒューズから得ました。

『ブルースピープル』


グッドマン: マヤ・アンジェロウとダンスするアミリ・バラカの写真です。休憩をはさんで、アミリ・バラカの生涯とその功績の話を続けます。


Beautiful Black Women の朗読。動画の32分28秒あたり
バラカ: Beautiful black women, fail, they act. Stop them, raining.
They are so beautiful, we want them with us. Stop them, raining.
Beautiful, stop raining, they fail. We fail them and their lips
stick out perpetually, at our weakness. Raining. Stop them. Black
queens. Ruby Dee weeps at the window, raining, being lost in her
life, being what we all will be, sentimental bitter frustrated
deprived of her fullest light. Beautiful black women, it is
still raining in this terrible land. We need you. We flex our
muscles, turn to stare at our tormentor, we need you. Raining.
We need you, reigning, black queen.

グッドマン: "Beautiful Black Women" 、アミリ・バラカでした。「デモクラシー・ナウ!戦争と平和レポート」です。アミリ・バラカの追悼番組をお送りしています。.

ゴンザレス: 198712月、アミリ・バラカは、ジェームズ・ボールドウィンの葬儀で弔辞を読みました。抜粋をお聴きください。
動画の32分28秒あたり
バラカ: 私がこれからも語りかけ続けるのは、このジミーです。我々の抑圧されたアフリカン・アメリカン国の栄光に満ちたこの優美なグリオ、このジミーに私は追悼のことばを述べています。ですから、私たちの祝祭のこの永遠なる瞬間に、消しゴムを手に私たちを監禁し切り刻むコピー・エディターの命のない指を触れさせはしません。

私たちの友についてこれから山のような分析がなされ、賞賛もされるでしょう。が、ニグロ作家、ジェームズ・ボールドウィンに対して分析すらしないことば、そして間違いなく糾弾がどっさりと寄せられることでしょう。ああ、我々はまだ、完全に不毛になれる力を手にしておらず、間違いをおかしたり、嘘をつくことは許されないのです。説得力のない約束などせず、ただアメリカそのものでいることは。

しかしこの大きなギャップ、イエロージャーナリズムと英文学部(我々が考えるアメリカはこれだったのですが)のボールドウィンと我々の現実の生涯におけるジミー・ボールドウィンとの間に果てしなく広がるこの深淵には、茫然とさせられます!彼が我々に向かってNobody Knows My Name、「誰も私の(本当は「私たちの」なのですが)の名を知らないと語ったとき、その時すでに彼は我々に心の準備をさせようとしていました!

だって、我々のこの年上のブラザーについて彼が得た影響や関係をひもとき息の根をとめようとする文やメタファー、批評がどんなに山積みになろうと、大半は的外れ。そのほとんどは昔の嘘の繰り返し、あるいは新しい嘘のでっちあげ。黒人の命をいまだに支配的な偉大な白人の胃袋に合わせその世界を消化しようとしてする試みにすぎないのだから!

グッドマン: 198712月、偉大なエッセイストで小説家、劇作家、詩人、社会批評家だったジェームズ・ボールドウィンをしのぶアミリ・バラカでした。ギル・ノーブルの番組 Like It Isからの抜粋でした。いずれも、いまは亡き偉大な先人たちです。今日は、アミリ・バラカを追悼しています。昨日、79歳で亡くなりました。このスタジオには姿が見えませんが、番組にはフィラデルフィアからソニア・サンチェスさんも参加しています。他の皆はニューヨークです。ソニアさんは偉大な詩人で高名な文筆家、劇作家、活動家で、アミリ・バラカの親しい友人で胞輩でした。

彼の詩を聞いてきましたが、あなたと彼とのつながり、そしてあなたやこの国や世界のとても多くの人たちに彼が及ぼした影響について聞かせてください。彼から受けたもっとも大きな影響は何でしたか?

サンチェス: ブラザー・ジミー・ボールドウィンへの追悼のことばをとりあげてくださったことを喜んでいます。 弔辞の中でバラカはボールドウィンを「神の、黒い革命を語る口」と呼びました。よく考えてみれば、ブラザー・バラカもまた、「神の、黒い革命を語る口」だったからです。弔辞の中で彼はまた、ジミー・ボールドゥインは単なる作家、国際的な文学者だっただけではなく、人間、精神、声、ブラックであり、最初の先祖がそうであるように彼もまたテリブルだったとも言いました。我々の愛すべきブラザーはこうしたものすべてだったのです。

先ほどシスター・トニ・モリソンとシスター・マヤの名前があがりましたが、シスター・トニ・モリソンはこういいました。「私たちは死ぬ。それこそ、生きることの意味かもしれません。でも私たちはことばでことをなします。私たちの生涯は、それを測定器にして測られるのかもしれません」。私たちの愛しいブラザーの生涯は彼がつむいだことばでした。ご存知でしょう、彼がどのようにことばをつかみ、さまざまな都市と国々をかけめぐり、私たちが私たちの骨を記録するのを助け、稲妻さながらにすっくと立ち、人種隔離とレイシズムと植民地主義と強欲のトランペット奏者の死の涙に耳を傾け、彼の舌がこうしたものすべてに向かって火を吹き、すべてをアメリカと呼ばれるこの場所の墓場からどうやって私たち全員を導きだしたか。彼の詩は、雲から、そしてはらわたから炸裂しました。彼はその舌でいくつものピラミッドをつむぎだしたのです。

聴こえていますか?

グッドマン: はっきり聴こえています。あなたは毎日、目を覚ますために俳句を1句詠むそうですね。

サンチェス: 彼のために1句詠みました。

グッドマン: 聞かせていただけますか?

サンチェス: 彼のために書いた句は、こうです。 Your words carry the spirit of creation, I say. I say, your words carry the spirit of creation. (意訳:あなたのことばは創造の精神を運ぶ)だって、そうでしょう?シスター、そしてブラザーたち。彼のことばは創造の精神を運んでいました。彼はいくつもの彼自身を歴史と変革の袖に縫いつけ、こちらを振り向いてこういいました。「さあ、早く早く、遅れずについておいで。わたしはことばを得た。私はことばを口にする。このことばからあなた方は学ばなければいけない。ここから出て、ことばとよばれるものを実行しなければ、自由といわれるものを実行しなければ、変革とよばれているものを実行しなければならない」と。そして私たちは耳を傾け、微笑み、そしてこの親愛なるブラザーそしていまスタジオにすわっているほかのすべてのブラザーたちと共に、変革とよばれているものを実行したのです。

グッドマン: 1967年にアミリ・バラカは警察の手で瀕死の重傷を負いました。ウッダードさん、その時、起きたことを聞かせてください。そして「ニューアークの暴動(riot)」と呼ぶひともいますが、アミリ・バラカなどは「ニューアークの反逆(rebellion)」とも呼んだこの出来事で、彼の身に何が起きたのか、聞かせてください。

ウッダード: 警察の手で撲殺されかかったんです。彼と他の数人をワゴン車から引きずりだして―おそらく誰なのか知っていたんでしょうね。彼を取り囲んで殴り始めた。黒人警官がひとり少し離れたところに立っていました。ほかの連中が彼を殴り殺すと思ったんでしょう。コミュニティの人たちが何が起きているのか気づいて、ビンなどを投げつけ始めたので、警官は彼を留置所につれていかざるをえませんでした。その後、さきほど彼が自分でも言っていたように警察では、彼の行方がわからなくなった。サルトルが彼がどこにいるのかを探す手助けをしたんです。行方をつきとめるのに、パリが関わったんです。

でもバラカは面白い。彼の命を救った人たちの中にラビット(ウサギ)という名のアルコール依存の飲んだくれがいたんです。ある日、ラビットが我々の本部にやって来た。私は「こんな飲んだくれがどうしてこんな場所に来るんだ?」といいました。するとラビットは「リロイはどこにいる?」と聞く。「何だこれは?何いってるんだい」「リロイはどこなんだ?」

グッドマン: どういうことですか?何の本部?

ウッダード: 当時ニューアークでニューアーク連合委員会という組織を作っていたんです。説明不足でごめんなさい。

ルシアーノ: CFUNと呼んでいました。

ウッダード: バラカが背広姿で出てきてこの飲んだくれと5分くらい話をしこの人に5ドル渡しました。で、私が「なんだこれは」というと皆が「あの人が彼の命を救ったんだよ。裁判で証言してか警察がバラカを殴り何が起きたのか話したんだ」といいました。バラカにはとても多くの顔があり、あらゆるたぐいの人たちと知り合いでした。私たちが彼から学んだ教えのひとつです。誰をも平等にわけへだてなく扱うということです。

ハム: ちょっとだけ付け加えたいのは

グッドマン: アドヒムさん、どうぞ。

ハム: アミリ・バラカは、私の知る限り、ニューアーク暴動を「反逆」と初めて呼び、この暴動を自由を求める黒人の闘いという文脈に位置づけた人でした。単なる暴動、一握りの警官の手で楽々おさえられる瞬発的なできごとではありませんでした。当時のニューアーク警察の人員は1500人ほどです。それだけでは止められなかったので州警察が700人、動員された。それでも止められなかったので、州兵3000人を動員した。1500人が負傷し、27人だかが殺されました。これが自由を求める黒人民衆の闘いの一環だと私に教えてくれたのはバラカでした。単なる暴動ではなく、この国で継続している集団的闘争の一部なのだ、と。

マルキシズムとアフリカの革命家たち


ゴンザレス: 彼のことで私が興味深く感じているのは、彼がアフリカ系アメリカ人だけでなく主流コミュニティも含めて、たゆまず政治思想の先端を推し進めたことです。いま思い出すのは、1984年に私がレポーターとして民主党全国大会を取材していたときのことです。 もちろんその頃までにはアミリはもっとずっと急進的な方向、社会主義とマルキシズムへと進んでいました。アミリはサンフランシスコのホテルの部屋にいたんですが、人々がご機嫌うかがいにやって来るんです。黒人のエスタブリッシュメントの政治関係者たちが次から次へと会いに来る。彼が民主党に属していないのは明らかだったのに人々は自分たちが大会で何をしているか、彼と話し討議する必要を感じたのです。それはともかく、彼が革命的ナショナリズムからマルキシズムへと進んでいったことについて、聞かせていただけますか?

ハム: はい。

ゴンザレス: —そしてブラックコミュニティのほかのリーダーたちは、どんな反応をしたのか?

ハム: まず、大事なことはバラカが突然、こんな変化をとげたわけではないということです。なによりもまず、バラカは私のような若者の目をアフリカにそしてアフリカの革命的指導者たちに向けさせました。クワメ・エンクルマ、ギニアビサウのアミルカル・カブラル、モザンビークのサマラ・マシェル、タンザニアのジュリウス・ニエレレなどです。このような人たちの著作を読めば左派にならないはずがありません。なぜなら、こうした人たちは誰も彼も社会主義者、あるいはマルキシスト、マルクス=レーニン主義者と自称していましたから。バラカとニューアーク連合委員会のメンバーたちはこういう人たちのことを研究していました。ですから、私には、知的観点からみて、彼らがその方向に進んだのは当然だと思えます。初期には、バラカはカワイダ Kawaida)というブラック・ナショナリズムの哲学を信奉していました。でも、カワンダを3つの最先端に凝縮したポスターが出たのを覚えています。ブラック・ナショナリズム、汎アフリカニズム、革命的社会主義の3うでした。1972年だったと思います。

ウッダード: 彼は時代の先を行っていたのです。

ハム: そうです。時代の先を行っていた。それとも、彼はまさにその時代にいて、我々が遅れていたのかもしれません。彼はいるべきところにいて、我々が彼に追いつこうとしていたのです。

ルシアーノ: 1960年にフィデルがハバナに入場し掌握した後、アミリ・バラカは350人を超える黒人知識人たちと共に「キューバへのフェアプレー委員会(a Fair Play for Cuba Committee)」を立ち上げました。他に誰がこんなことをやったでしょう?そして封鎖を非難しました。「コミュニティを団結させよう」と言い出したのも彼です。バラカは、セコウ・トゥーレに夢中になりました。クワメ・エンクルマに夢中になりました。私はセコウ・トゥーレの詩は読んだことがありませんでした。バラカが我々のショーにアフリカの社会主義者をつれてきて我々を彼に引き合わせました。ブラック・プエルトリコ人である私は、ブラックの知識人がグローバル社会主義について腰をすえて討議するのをしっかり目にし理解しようとしたわけですが、頭がくらくらするような体験でした。 彼は言いました。「作品を書くだけでは足りない。椅子に腰掛けたアームチェア・リベラルでは不十分だ」と。彼がギンズバーグをあんなにも愛したのも、ギンズバーグが実行の人だったからです。

グッドマン: 詩人のアレン・ギンズバーグですね。

ルシアーノ: アレン・ギンズバーグは私に言いました。「この人だよ」と。ホイットマン続いて、ロバート・フロスト、ギンズバーグ、そして, アミリ・バラカです。

グッドマン: アミリ・バラカのクリップをもうひとつご覧ください。20046月、ニュージャージー州ニューアークでの第1回全米ヒップホップ政治会議での録画です。
動画の44分12秒あたり

バラカ: マルコムXが亡くなる1ヵ月前に私に向かって言ったこと、そしてマーティン・ルーサー・キングも亡くなる前の週に私の家で言ったこと、それは「ブラザー・バラカ、我々に必要なのは共同戦線だ」。我々は共同戦線を築かなければなりません。キミがパンサーだろうと、文化的ナショナリストだろうと、ラップを信じていようと、ヒップホップを信じていようと、ムスリム、キリスト教徒、ベジタリアンであろうと、自分が何だかわかっていなかろうと。私の言いたいことがわかるかな?我々がまずやらなくてはいけないことは?ブッシュを倒すことだ。まずは、それが大きな結集点だ。でも全体を貫くテーマは、「民衆の民主主義」に向けた闘いだ。

グッドマン: 20046月のアミリ・バラカの講演でした。ソニア・サンチェスさん、この後を続けていただきけますか?あれほど過激な政治を語ってきた彼が人々に投票を呼びかけるのを聞いて驚く人もいるかもしれません。

サンチェス: ほんとうに。すてきですよね?彼の息子は(ニューアーク市の)市長に立候補していますし。ブラザー・バラカは皆に電話しまくって「来てくれよ。来て手を貸してほしい。この選挙キャンペーンで我々に力を貸してくださいよ」と言ってました。私たちはここフィラデルフィアで、彼とブラザー・ラスのために資金集めをしましたよ。

でも社会主義と共産主義、左翼ということでいうなら、ブラザー・バラカが私にこう言っていました。彼が本当に深く関わるようになったのは、アミナさんを通してだと。二人の政治上の立ち居地に疑問を持ち始めたのはシスター・アミナで、共産主義に関してまず最初に深く関わり始めたのは、アミナさんだったと。

グッドマン: 結婚相手の。

サンチェス: ええ、ブラザー・バラカの妻のシスター・アミナです。我々が理解し始めたのは、彼自身だけによる運動だったのではなかった、彼ら二人による動きだったということです。彼ら二人の運動が左へ動いていったのです。フランツ・ファノンは、こう言っています。「 必要なのは、自らを持ちこたえることだ。銀のように。世界の心にぴったりそって。必要ならば、世界のリズムを遮断して、必要ならば、指揮系統を転覆させて、だが、世界に向かってすっくと立ち上がって」と。ブラザー・バラカは世界に向かってすっくと立ち上がったのです。彼はこういいましたから。「 私は人間的な世界を創るために闘いを仕掛けている」と。私たちはそのことをけっして忘れてはなりません。彼は人間的な世界のために闘かったのたのです。ファノンが語ったように。

グッドマン: 番組終了の時間が来てしまいました。でも、会話はまだ続きます。残りの会話はオンラインでご覧ください。ゲストの皆さん、ご参加ありがとうございました。

©Hideko Otake, 2016


0 件のコメント:

コメントを投稿