2016年9月1日木曜日

早すぎたヒーロー 天使の顔をしたトラブルメーカー バイヤード・ラスティン

公民権運動の3大美男子の一人、バイヤード・ラスティン。人を引きつけてやまない魅力と揺るぎない信念、差別と不正を許せない熱烈な平和・反戦運動家にして公民権活動家。だが、ラスティンは影を負っていた。アウトサイダーの道を選んだのは、オープンなゲイで元コミュニストという存在が、当時の運動にとって抜き差しならぬリスクを意味したからだ。早すぎたヒーロー、キング牧師にガンジーの非暴力の闘いを伝授し、公民権運動に絶大な寄与をした「天使の顔をしたトラブルメーカー」バイヤード・ラスティンとは?(大竹秀子)

ワシントン大行進。「私には夢がある」の演説を行うマーティン・ルーサー・キング・ジュニアのすぐ背後にラスティンの姿が。


公民権運動は、若者が輝いた運動だ。モンゴメリーのバスボイコット運動の若き指導者として全米の注目を浴びたとき、マーティン・ルーサー・キング・ジュニアは、26歳。みずみずしい少年の匂いが残る若者だった。バイヤード・ラスティンは、17歳年上だから、公民権運動の大きなうねりがかけぬけた頃には、すでに40代から50代初めのおじさん世代。だが、この世代やさらにもう一世代年上の大叔父さん世代がすごいのは、60年代の運動を盛り上げていくことになる画期的なアイディアをとっくの昔に思いつき実験すらしていたことだ。足踏みしながら時の到来を待っていたおじさんや大叔父さんたちは、若者を表に出しながら、もてる知識と体験を惜しみなく手渡していった。この幸せな共闘が崩れ、若者がはじけ始めたのは、公民権運動がとりあえずの成功をおさめはじめてから後、ブラック・パワーが自覚され、若者がマルコムXやブラックパンサーなどいかにもアメリカの都会的な闘い方に魅入られていってから後のことだった。

高校生でもうただものではなかった


さて、バイヤード・ラスティンは、生まれ落ちた時から「訳あり」だった。1912年ペンシルバニア州ウェストチェスター郡で生まれた、9人兄弟の末っ子として育てられたラスティンだが、姉と言われていた人物が実の母親で、母親とされた人は祖母だったことをやがて知る。平和主義で知られるクエーカー教徒(ウェストチェスター郡のクエーカー教徒は奴隷廃止運動の歴史ももっていた)でアメリカで最も歴史の古い公民権運動組織「全米黒人地位向上協会(NAACP)」の会員だったこの母親(祖母)は、なかなか気になる存在だ。だって、ラスティンは、早くも高校生のときにこんな「騒ぎ」を起こす子だったからだ。当時、ウェストチェスター郡でも映画館では人種差別が生きており、同じ料金を払わせられながら、黒人はスクリーンから遠い隔離された席でしか映画を楽しめなかった。ラスティンは、このしきたりを公然と破ったのだ。「ウェストチェスター郡には、パトカーが3台いるってことをその時、初めて知ったんだ」と後にラスティンは語っている。が出現したかのような騒ぎとなり、郡もパトカーすべてが出動されたのだ。逮捕は覚悟のうえだ。騒ぎからプラス効果を生み出すのが、ラスティン流だ。地域の黒人と「心ある」白人に向けて、留置場の中からラスティンは呼びかけた。保釈金支払いのため、一人10セント寄付してほしい。みごと釈放を勝ち得た彼。ひとをその気にさせ連帯を生み出す。生涯にわたるリーダーの資質をこの高校生はすでに発揮していた。総計20数度にわたる逮捕歴の始まりでもあった。

ハーレムでミュージシャンに



学業はもちろん、文才・話術・スポーツと何をやらせても光るこの若者の道を開くことになったのは、その美声だった。音楽の奨学金を得て大学に進学し、成人してニューヨークに出てからは、グリニッチ・ビレッジのクラブにシンガーとして出演し、ブロードウェイ・ミュージカルの舞台に立ったことも。だが、ショービジネスの華やかな世界の体験とは裏腹に、ラスティンを夢中にさせたものが、もうひとつ。コミュニズムだ。ハーレムで暮らすうち、黒人が生活上のいろいろなトラブルに巻き込まれると、何くれと世話を焼き守ってくれるのはコミュニストたちだということに気づいたのだ。青年党員としてマルクスやレーニンを精読し、オルグに励むラスティンだが、やがて熱がさめる時が来た。1941年、ヒトラーのソ連侵攻に伴い、共産党は劇的に路線を変更し柔軟性を失なった。ファシストとの闘いのためには国民的統一が第一だとし、人種差別への闘いを切って捨てたのだ。

2人の偉大なメンター



突出した若者に欠かせない存在。それがメンターだ。マルコムXだって、まずはイライジャ・ムハンマドの忠実な弟子だった。ラスティンの場合は、2人の師匠にめぐまれた。A.J.ムステとA.フィリップ・ランドルフだ。オランダ生まれのA.J.ムステは、キリスト教の聖職者で平和を追求する反戦論者だったが、社会主義に傾倒し、革命も否定しない高潔な人物だった。平和を求めるキリスト教諸派をたばねたFellowship of Reconciliation (FOR)(ちなみにこの団体は現在も存続し、ファーガソン以降、『ブラック・ライブス・マター(BLM)』ともつながって運動に広がりを与えている)の指導者だったムステに熱心にリクルートされたラスティンは、第2次世界大戦下にあったアメリカで、反戦平和運動の活動家として、良心的徴兵忌避者を助け、米国政府により強制的に収容された日系人たちを見舞うようになった。
一方のランドルフも列記とした社会主義者だ。急進的月刊誌「メッセンジャー」の共同創設者で労働運動のオーガナイザーでもあった彼は、1925年、豪華列車プルマンで働く黒人労働者のために「寝台車ポーター組合」の結成に尽力し、その議長として尊敬を集めていた。その彼が、1941年、「ワシントン大行進」を計画したのだ。軍需産業における人種差別に抗議し人種分離の撤廃、反リンチ法の制定、米軍内での人種分離撤廃を訴えるこの抗議運動にラスティンのボスでムステが共鳴し、ラスティンは計画実行者の一員として、活躍することになった。だが自由と民主主義の国と称して第2次大戦を戦っているはずのアメリカ国内で、こんな差別と抗議が起きては、戦略的にマイナスだ。なんとかことを鎮めたいルーズベルトが急遽、大統領命令で軍需産業内の人種差別を禁止したため、大行進は実行を待たずに効果をあげたと中止された。キング師の「私には夢がある」の名演説を生むことになった1963年の「ワシントン大行進」を計画の種は、20年以上前に蒔かれたのだ。

兵役拒否で投獄



平和を貫いたラスティンは、第2次大戦末期、良心的徴兵忌避者として3年を獄中で過ごした。出獄と共に活動が再開だ。1947年、ラスティンは「和解の旅(Journey of Reconciliation)」を企画した。60年代半ばに公民権運動に風穴を開けることになった「フリーダムライダーズ(自由のための乗車)」運動のこれまた20年近くも前の試みだった。実をいうとこれに関して、ラスティンには「前科」があった。運動家として国内外を旅することが多い彼だったが、ある日、突然、人種差別的な州法に守られて差別を平然と行うバスに乗っての旅に我慢ができなくなった。当時、南部のバスは黒人席と白人席に隔離され、黒人は後部の限られた席にしかすわれなかったのだ。ラスティンは、やおら白人席に移動し、運転手は警察を呼んだ。かけつけた警官数人に猛打されたものの、警官の暴力沙汰を見かねた白人乗客数人が、警官に抗議したのが、わずかながらの勝利だった。

タネは蒔かれた



「和解の旅」はこの時の、「たった一人の反乱」を組織的な非暴力抵抗運動として展開しようとする試みだった。人種差別撤廃運動団体「人種平等会議(CORE)」やFORのメンバーに呼びかけ、黒人と白人が共にバスで旅をし、人種差別法を破ることによりその不正をただすことを目的とした。折しも、州境を超えて走る長距離バスは連邦法の管轄下にあるため、人種隔離は容認されないとする最高裁の判決が出たばかり。憲法にそった連邦法が人種差別的な州法を打ち負かせるかを問う挑戦だった。バス2台に分散し、総勢16人が参加した2週間の旅は、多少の逮捕者を出したものの大論争を起こすにはいたらなかった。首都ワシントンを出発し、終着駅は、ノースカロライナ州ダーハム。南部とはいえ、人種差別が大衆の憎悪となって立ち現れるアラバマやミシシッピのようなディープサウスとは違っていた。ディープサウスに突入するという60年代のフリーダムライダーズの無鉄砲さはこの時にはまだなく、結果的には軽い実験版で終わった。だが、60年代のフリーダムライダーズを最初に企画・組織したのは、パイロット版の参加団体でもあった「人種平等会議(CORE)」。この時、死傷者が出かねないディープサウスの暴徒に迎えられ、あわや断念寸前となった旅を大学生を中心にしたSNCCの若者たちが生命を張って続けることになる。

キング師に非暴力をてほどき


マーティン・ルーサー・キング・ジュニアにとって、ラスティンはどんな存在だったのだろう。こんな言葉が残っている。「彼は私のグルだった。きわめて重要なあの時期に、非暴力について一から十まで学んだ。バイヤードが刺激してくれなかったら、一歩を踏み出す勇気をもてなかっただろう」。
1948年、ガンジー暗殺後まもないインドに2ヶ月近く滞在したラスティンはガンジー直々の弟子たちから非暴力抵抗運動を学んだ。195512月、アラバマ州モンゴメリーで黒人女性ローザ・パークスが白人に席を譲ることを拒否して逮捕されたことを発端に抗議のバス・ボイコット運動が始まると、ラスティンは現地に出向いた。キング本人も認めていたように、ガンジーの名は知っていてもキングは非暴力抵抗運動とは何かをほとんど把握していなかった。人種差別主義者たちの暴力から身を守るため、キングの自宅には運動に関わる人たちがもちこんだ銃がごろごろしていた。そんな中で、ラスティンは非暴力こそが力であり、なにより有力な武器であることを青二才の牧師にすぎなかったキングに伝授し、非暴力を軸にした闘い方を教えた。また運動の組織化(南部キリスト教指導者会議:SCLCを結成)も手ほどきした。自然発生的に生まれた地域の抗議行動を、偉大で有効な運動へと方向づけたのは紛れもなくラスティンの貢献だ。

ゲイが犯罪だったとき



だが、キングとラスティンとの間に、亀裂が入る時がやがて訪れる。ラスティンは1953年に、社会運動家としてだけでなくひとりの人間として、大きな傷を負っていた。当時、活動家として旅から旅へと多忙な日々を送っていた彼は、ウェストコーストのパサデナの、土地の人が「クルーズ通り」呼ぶ人気のない通りで車で通りかかった白人の若者2人を「ひっかけようとした」とし、逮捕された。ゲイが「自然に逆らう犯罪」とされ、ゲイは性犯罪だとみなされた時代である。おまけにラスティンは、当時、蛇蝎のごとく恐れられ嫌われたコミュニストだった過去ももつ。それまでもラスティン自身はゲイであることを隠すことなく自然にふるまっていたのだが、敵も多い運動にとってこのスキャンダラスな逮捕劇は痛かった。FBIの監視の目が光り、誹謗中傷も含めた妨害工作が激しくなると、キングが望もうと望むまいと、ラスティンを遠ざけさせようとする圧力が勢いを増した。
その急先鋒となったのがNY選出の民主党黒人連邦下院議員アダム・クレイトン・パウエル・ジュニアだ。華やかな風貌、朝っぱらからウィスキーをがぶ飲みし、「男」を売り物にする「有力」政治家だった。押しの強いエゴの塊のようなパウエルは、以前からラスティンとぶつかることも多く目の敵にしていた。民主党がからむあるイベント企画をきっかけに、そのパウエルが、「ラスティンを外せ。外さなければ、ラスティンとキングがゲイの関係にあるという噂を流すぞ」と言って、キングを脅したのだ。イベントで重要な役割を果たすはずだったラスティンは、すっかりびびってしまったキングの立場を思い自ら身を引いたが、そんな彼をまったく擁護しようとしないキングの態度に深い失望も隠せなかった。
公民権運動の前線から一歩退いたラスティンが力を注いだ取り組みに、サハラ砂漠でのフランスの核実験阻止があった。ドゴール政権下、フランスは独立のための闘いが続くアルジェリア国内のサハラ砂漠を核の実験場にしようと計画した。これを阻止するため、砂漠の中の実験場まで出向いていわば「人間の盾」になろうとする果敢な国際的平和運動だった。距離的にはモロッコから接近するのが最短距離だったが入国を拒否され、独立まもないガーナが拠点になった。独立の闘志でもあったエンクルマ大統領は全面的な支援を提供したが、アルジェリアはガーナからあまりにも遠く、結果的に運動は実らなかった。だが、反植民地運動とも連携した国際的平和運動とアフリカなどで培ってきた連帯の人脈は、ラスティンが関わっていた当時の平和時代の姿を色濃く反映する一例だ。

歴史に残るワシントン大行進



ラスティンが公民権運動で再び、キングと行動を共にすることになったのは、1963年のワシントン大行進だ。「職と自由を求めるワシントン大行進(March on Washington for Jobs and Freedom)」という正式名称をもち、60年代公民権運動の歴史を刻む出来事として記憶されることになったこのイベントを、企画・実現させたのはA.フィリップ・ランドルフとバイヤード・ラスティンの2人だった。この企画を特集したライフ誌の表紙を飾ったのも、キングではなく、この2人だった。ランドルフにとっては、20年前、涙をのんで断念した夢の、今度こその実現だった。参加者数20万人とも30万人ともいわれる一大イベント。成功には、渾身のエネルギーと細心の準備が必要とされた。全米各地のさまざまな組織や個人への呼びかけ、ワシントンまでのバスや列車の手配、80万個のサンドイッチ作りにいたるまで、混乱なく進行するよう段取りよく仕切り、平和のうちに終焉し、終結と共に全員を平穏に退去させる。これができるのは、ラスティンしかいないと言われた。セレブも参加したが全参加者の75%から80%は、黒人。全米テレビニュースを通してのキング師のドラマティックな演説、平和な大行進の成功は、黒人たちの平等への希求を全米に伝え、アメリカの良心を痛ませ、1964年の公民権法、1965年の投票権法成立への道筋がつけらる一因となったといわれている。

アウトサイダーに徹した生涯



ラスティンが亡くなったのは、1987年。忘れ去られていた業績が、ようやく日の目を見るようになっのは21世紀にはいってからだ。2003年ジョン・デミリオ著の評伝Lost Prophetが上梓されたのを皮切りに、2010年にはドキュメンタリーBrother Outside: The Life of Bayard Rustinが公開され、いまでは書簡集も出版されている。LGBTの権利がようやく正当な擁護を受け、パワフルなアクティビストたちの活動が盛り上がるにつれ、ここ数年ラスティン復権の機運は勢いを増し、2013年には、オバマ大統領により、文民に贈られる最高位の勲章「大統領自由勲章」が授与された。
バイヤード・ラスティンが遺した名言に、こんなのがある。”I believe in social dislocation and creative trouble.” “Social dislocation” とは、エスタブリッシュされた秩序をかき乱し、続行不可能にしてしまうことらしい。人種やジェンダーによる差別や支配、戦争など、当たり前とされてしまっている悪しき「秩序」を攪乱する、クリエイティブなトラブルメーカー、バイヤード・ラスティンが生涯めざしたのは、頭を使って工夫をこらし、そんなトラブルメーカーになること、そして大勢の人にトラブルメーカーになるよう、たきつけ続けることだった。
 © 2016, Hideko Otake

バイヤード・ラスティンの伝記ドキュメンタリーフィルム
Brother Outsiders のトレーラー

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